多治見市宝町の常設道場にて伝統空手を練習しています。伝統空手は五輪はもちろん、総合格闘技とも親和性の高い実戦的な技術です。
一章:武術の始まり
■武術の技術体系ができたのはいつ?〜 古墳時代、飛鳥時代、奈良時代では、肝心である武術という体系付けられた技術はいつ頃から生まれたでしょうか。
恐らく、刀剣の扱い方というのは、刀剣が生まれた頃より、鍬や鎌など農耕道具の取り扱い方を知るのと同じように自然発生的に生まれのだと思います。
しかし、籠手斬り、袈裟斬りなど斬り方の技術、八相の構え、正眼の構えなど構えや防御の技術など体系化された一つの流儀として生まれたのは、剣術では“鹿島の太刀”と呼ばれるものが最初だと言われています。
柔術や拳法などの元となった徒手技術は“相撲”が最初であったと言われており、相撲は今でも神事であるとされています。
伝承では、鹿島神宮が日本の剣術のはじまりの場所とされています。
鹿島神宮には日本最古最大の直刀、タケミカヅチの神剣である“フツノ御霊の剣”が祭られています。この神剣は推定1300年前に製作されたとのこと。
この神剣は全長2メートル71センチもあり、現代でもよく美術刀として見られる反りのある刀の違い、真っすぐな直刀です。
※写真1: フツノ御霊の剣 仁徳天皇の時代(4世紀頃、古墳時代)に、鹿島神宮の神官である国摩真人(くになずのまひと)という人物が、鹿島神宮の武甕槌大神から「神剣の極意」を授かったという伝承があります。
あくまで伝承なので、授かった過程が事実検証はさておき、少なくとも、それが鹿島の剣という“体系化された武術”の始まりであったとされています。
その鹿島の剣は、代々、鹿島神宮の神官に伝えられたといいます
663年(飛鳥時代)に白村江の戦が起きました。
朝鮮半島(百済)を助けるため、日本(倭軍)は出兵しましたが、唐・新羅連合軍(現在の中国、モンゴル)に大敗してしまいまた。
その流れに乗じて、「唐が日本に攻めてくるのではないか」との不安の声が高まりました。
そして、646年(奈良時代)の大化の改新があり、九州沿岸の防衛のため“防人”という制度が始まりました。
現代の私達にでも分かり安い言い方をすれば、ある意味で自衛隊を派遣するようなものです。日本の各地より、人員を集め九州沿岸に派遣しました。
常陸国(現在の茨城県)から防人として派遣される予定のある人達が鹿島神宮に集まり、神官から剣術を教わっていたといいます。
国の命令であっても、食料や武器は自前で用意しなければならず、当然、教育費なども支給されない為、武術なども自分達で学ばなければならなかった事情があったからです。
そして、鹿島の剣を学んだ防人達は俗にいう“鹿島立ち(鹿島の学び、旅立つこと)”をし、派遣先で他地域の防人と交流し、鹿島の太刀が広まっていったといいます。
なぜ、空手の本で剣術の歴史に触れるのか? それは現代の空手は、剣術などの日本武術と大きく関わりがあるからです。
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