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館長小池の修行歴

小学低学年頃 宮部大悟氏より剛柔流空手をマンツーマン形式で学ぶ。
小学中学年頃 K-1アンディフグに憧れ、極真空手読本を手に取り独学修行。
中学一年頃  極真九州中量級王者青木裕成氏より極真空手をマンツーマン形式で学ぶ。同時期に剣道を部に所属。
中学二年頃  極真会館に正式入門、分裂後は松井派所属。刈谷分支部長鈴木雅弘氏に師事。
高校一年頃  愛知東南支部堀田支部長の下、並行して内弟子修行開始。同時期に高校柔道部に所属。
高校二年頃  第7回全日本青少年空手道選手権高校重量で準優勝。準決勝で正道会館田中公健選手を破り、決勝にて哲心会富田哲治選手に敗れる。
高校三年頃  第8回同大会ベスト8。城南支部で数見肇師範(当時指導員)の直弟子に敗れる。氏の放った中段蹴りを膝ブロックで脛骨を粉砕する激戦となるも敗退。全東海では一般三位。
高校卒業時  極真会館退会。自身の部を見つめ直す為、弓道を学ぶ。
19歳頃    佐藤塾や白蓮全日本などで連覇を成したレジェンド松本勇三氏の勇三道場入門。勇三氏のキックボクシング挑戦に従い、自身もキック技術を学ぶ。
22歳頃    自身の独立起業に伴い退会。一時的に空手修行から身を引く。
23歳頃   武道が忘れられず甲野善紀氏の古武術稽古会へ通う。併せて光岡秀捻の意拳稽古会へ通う。
23歳末頃  合気道士道館に入門。故堀田武治氏より合気道、鹿島神流剣術を学ぶ。
27歳頃   新日本兵法武禅館(現、総合空手道武禅館)を創始。独学で大道塾など着衣型総合格闘技に挑戦。
29歳頃   合気道士道館退会。故堀田武治氏より田中茂穂伝来の袴を譲り受ける。
31歳頃   和道流空手を学ぶ。武禅館の事業拡大に伴い34歳頃退会。
35歳頃   独学でDEEP、アマパンクラスなどで好成績を残すも限界を覚え、ブラジリアン柔術を学ぶ。

番外編:小池家の歴史 ~武術との繋がり~

【小池家と武術】
小池刑部家継は今城(岐阜県可児市)を築き、城主となり織田信長に帰順し、森家の家臣となる。その後、本能寺の変を契機に反旗を返すも森長可に鎮圧され帰農。

その後、子の1人が小池家再興の為、黒田家に仕官し、その後、支藩である秋月藩へ。
永く戦は起こらず、何代にも渡り立身出世の機会には恵まれなかった。

時は明治となり、新政府への反乱を起こした日本最後の内戦である西南戦争に呼応して起こった秋月の乱で討ち死にし、子である小池弥七は縁ある今村徳三郎の婿養子となり、現宮崎県高千穂に根付く。
今村氏は秋月の乱の中心人物となった今村百八郎の孫。
今村百八郎はは秋月藩馬廻り頭宮崎丹下の実子であり、宮崎車ノ助の実弟であり、秋月の乱の首謀者として知られる。秋月の乱の敵方である新政府軍の総指揮官は乃木希典である。

今村氏より家督相続し、小池姓を呼称する。
現在の小池家は今村氏を継承したものであり、直系血族としては小池家綱や宮崎丹下から脈々と続くものである。明治において小池家は、赤石神社の古代相撲奉納など務めたが、第二次世界大戦中に没落。戦後、愛知県に移住し、紡績業起業の為、次男亜治が愛知県に小池紡績を興す。問題児であった三男(父)は本家より勘当される形で亜治につき従い同県へ。


 

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