全日本空手道連盟公認FIKAカラテplus、ISKAキックで活躍。多治見市宝町で常設道場を構えています。館長は道場経営入門著者。空気清浄、サンドバック、ミット完備。
武禅館の理念背景
館長小池一也はまず幼少の頃、沖縄からの移住した先生に青空教室のように剛柔流を手ほどきを受けました。その頃の自身の実力は定かではないですが、少なくとも技術基盤はここでできたと思います。
物心がつき、自信が貧困、ネグレクト、イジメなどの環境に置かれていることに気付き、「ここから抜け出したい」と強く思うようになりました。
偶然、図書館で手に取った故大山倍達著の極真空手入門、テレビで目にしたK-1グランプリで活躍する故アンディ・フグ(極真会館→正道会館に移籍した経緯がある)に強い衝撃を受け、極真空手(松井館長)の門を叩きました。
そこから本格的な修行が始まりました。
平成初期は、昭和の気風も残り、月謝を融通してもらい、先生に感謝しております。
稽古前には必ず拳立て500回、スクワット1000回を自身に義務付け、ランニングは10㎞を日課にし、時に神社の木に向かい、拳の皮が破れ切るまで正拳突きを打ち込んだものです。
愛知東南知多支部の内弟子として、支部長の手伝いをしながら修行に励んだ時期もありました。
鈴木雅弘分支部長の直弟子として極真魂の英才教育を受けたことから、「空手は、いつ、どこでも、誰とでも戦っても負けない」という実戦観が根底にあります。
退館しても尚、私は極真魂を受け継いでいるという自負はあります。
当館館長を始め、多くの武禅館道場生がフルコンタクト、ポイント制、キック、MMAと様々な格闘競技に挑戦していたのも、ここに理由があります。
この姿こそ、本物の空手であるという自負があります。
そうした成果もあってか、まず地方中学生大会で優勝をしました。
私は全校集会で表彰してもらおうと考え、学校に提出しましたが、「表彰できない」と却下を受けました。
しかし、「全日本で結果を出せば」と前向きに考え、努力しました。
後に全日本青少年高校の部で準優勝ができました。
後に横浜流星さんや神童・那須川天心選手を輩出した空手修行に励む青少年達の最大のイベントです。
出身中学にはインターハイ出場を果たした先輩達の写真や賞状が飾られていました。
私も母校に錦を飾ろうと賞状を持ち込みましたが、やはり「表彰できない」と却下を受けました。当時は教育現場も純粋に努力した子供を評価するというよりは、どの派閥、連盟に所属しているかが重要だった時代でした。
その時の悔しさがあったからこそ、私は子供達の為に考えるようになったのかもしれません。
この思いがあるからこそ、武禅館は教育委員会の後援や共催を頂くことにこだわって、大会運営をしているのかもしれません。
空手という寛容性を人々に伝えたい。
過去、K1と共にPRIDEという総合格闘技が流行していました。今で言うMMAの原型となるものです。
空手は武術、護身術であり、例え大人数、武器所持の相手であっても戦えなければ意味がないと考えており、伝統派空手、極真空手、勇三空手を始め、キックボクシング、意拳、鹿島神流剣術、古流柔術、合気道、ブラジリアン柔術と古今東西、様々な武術を学びました。
その後、自身の理想、空手の本流を求めるべく生徒ゼロから独立し、今に至ります。
ほぼ全てのジャンルの空手試合、パンクラス、DEEP、禅道会とMMAにも挑戦し、多く決勝や準決勝まで上り、実力が遠く及ばずとも、多くの有名チャンピオンと対戦させて頂いたのは、私の誇りです。
昨今、競技空手が主流になり、人々は”武術”という言葉に意味を忘れています。
先人の残した武術とは何か、歴史とは何か、何を想いこの武術が生まれたのか、そんな想いと主にあるのが武術です。
空手は沖縄と中国の技術が合わさり、日本の知恵が加わって現代空手の原型ができました。
そして、中東、欧米と様々な人種が競い合う中で更なる技術発展を遂げました。
被併合側の琉球という国で始まった武術、決して戦勝側とは言えない国の武術がここまで世界的に広まったのは世界でも珍しいものです。
それは空手の持つ寛容性の成せる業です。
空手とは寛容性であり、平和の種。
SDGsの時代だからこそ、今一度、空手という歴史に触れてはいかがでしょうか。
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